ぐわぐわ団

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東の渋沢、西の五代

詳しいことは知りませんが、東の渋沢、西の五代という言い回しがあるそうです。渋沢というのは渋沢栄二の兄、渋沢栄一のことを指し、西の五代というのは後醍醐天皇のことではなく、五代友厚、すなわちディーン・フジオカのことを指します。朝の連続テレビ小説で五代友厚の役を演じ、大河ドラマでも五代友厚の役を演じる以上、もはや五代友厚はディーン・フジオカといっても過言ではないでしょう。

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この二人に比べると知名度は若干落ちてしまいますが、北の原口、南の田村という人がいるそうです。詳しいことはわかりません。ていうか、謎過ぎて誰もわからないというぐらいに謎に包まれているのです。

東京証券取引所を作ったのが渋沢栄一で、大阪証券取引所を作ったのが五代友厚というのは有名な話ですが、取引されている株式のほぼ100%ライザップというわけのわからない札幌証券取引所を作ったのが原口だとかそうでないとか。

そして、福岡証券取引所を作ったのが田村っぽいようです。違うかもしれません。福岡証券取引所というのは醤油でおなじみヒガシマル、乾麺でおなじみマルタイが上場している証券取引所ですが、ぶっちゃけパッとしません。札幌証券取引所と似たり寄ったりと言ったら怒られるかもしれませんが、怒られたら怒られたで泣いて謝ります。

ていうか、札幌証券取引所の歴史をしれっと調べてみても、わっかんないんスよ、誰が作ったか。証券取引所の沿革のPDFを見ても、誰が作ったか書いてなくて、1949(昭和24)年12月設立総会としか書いてないの。誰が発起人となってうんにゃらかんにゃら書いていると思ったのにびっくりドンキーですよ。仕方がないので、適当に思いつきで原田という名前を出しました。いや、原口か。どうでもいいんですけど。

そして、福岡証券取引所に関しては、もう沿革を調べるのも面倒になり、適当に田村という名前を出してしまいました。読者の方に田村さんがいらっしゃったら申し訳ありませんが、そういうことですので、南の田村ということにしておいてください。合掌。

 

晩節を汚さないためにすべきこと

晩節を汚すという言葉があります。それまでの人生で高い評価を得てきたにも関わらず、後にそれまでの評価を覆すような振る舞いをし、名誉を失うことを指します。最近、晩節を汚す人が後を絶ちません。具体的に誰が誰がというわけではありませんので、名指しは致しませんが、とにかく晩節を汚す人がが多いのは皆さまもお感じのことでしょう。

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晩節を汚さないためにはどうすればよいのでしょうか。お年を召してしまうと、身体が動かなくなったり、自制が効かなくなったり、いろいろとあるのは仕方がないことです。プリウスのアクセルとブレーキを踏み間違えるなんてのは言語道断ですが、プリンのカラメルとフレークを踏み間違えるぐらいなら多めにみてあげてもよいかもしれませんが、人生で高い評価を得ていた人が食べ物を踏むという行為は晩節を汚すことになります。

結局のところ、人生で高い評価を得るからいけないのです。名誉を失うもなにも、名誉がなければよいのです。人の迷惑になることなく、しかし役に立つこともなく、じんわりとただただ生きてさえいればよいのです。下手に偉くなったりすると、後で晩節を汚す可能性が出てくるのですから、晩節を汚さないためにも、偉くならないようにするのが最も手っ取り早いと言えるでしょう。

偉くなれば偉くなるほど、高い評価を受ければ高い評価を受けるほど、晩節を汚す可能性が高くなります。晩節を汚すか汚さないかは、必ずどちらかなので、確率でいうと二分の一です。言い換えると50%、5割です。大谷翔平ですら3割しかヒットを打たないのです。 にもかかわらず、5割の確率で晩節を汚す可能性があるとすれば、これはもう偉くなる必要はありませんし、高い評価を受ける必要もないのです。

ただ、先ほども書きましたが、誰かの迷惑になるようなことをしてはいけません。それは人の道から外れた行為であり、晩節を汚す以前の問題です。私はノーベル賞を受賞した暁には、決して外に出ることなく、晩節を汚さぬように万全を期すつもりですので、とりあえずノーベル賞ください。合掌。

哀しみのニューヨーク

テレビの歌番組を見ていたら、名前も聞いたことがない演歌歌手が「哀しみのニューヨーク」という歌を歌っていました。

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どんな歌かというと、君のことが忘れられない、今でも愛している、摩天楼の下でもう一度会いたい、といった感じの離婚した夫からのロミオメールみたいな内容で、最後に「♪哀しみのニューヨーク」なのです。

いや、ちょっと落ち着きましょう。なぜ、どうして、どういう経緯でニューヨークなのでしょうか。例のウイルスのこともありますし、そんなに簡単にニューヨークに行ける時代ではありません。もうすぐオリンピックということで、海外からたくさんの人たちがどんどん日本に来ていますが、それはオリンピック関係者ということですし、きちんと検査もされたうえで来日されているのですからそれはそれとして、歌の舞台がニューヨークである必然性が全くないのです。

別に、エリートビジネスマンでニューヨークにやたら出張に来ていたというような歌詞が入っているわけでもなく、ニューヨーク市場で株式をバリバリ売り買いしていたなんてことが歌われているわけでもありません。ただただ、君のことが忘れられない、今でも愛している、摩天楼のしたでもう一度会いたいというだけの歌です。ぶっちゃけ、蒲生四丁目でも十分歌が成立してしまうです。でも、なぜかニューヨーク。

たとえば、これが50年前の歌というのであればわからなくもありません。ニューヨークなんてめちょんこすごいところで、愛を育み、悲しい別れをし、それを振り返る哀しみの歌。なんとなくヒットする要素はあるっぽいです。しかし、今は現代です。ニューヨークと言われても「はぁ……」な時代です。「ニューヨークに行きたいか!」を合言葉に後楽園球場に集まるような時代でもありません。私自身もニューヨークには腐るほど行きましたが、もう飽きてしまって、最近ではニューではない、イギリスのヨークのほうが楽しかったりします。ただ、「哀しみのヨーク」だと、これはこれでなんとなく物足りなさを感じます。理由はわかりません。合掌。