もはや、なぜここまで西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」に固執するのか、さっぱりわからないのですが、とにもかくにも「もしもピアノが弾けたなら」に関して。
この歌は西田敏行が歌うからこそ意味があるのであって、仮にリチャード・クレイダーマンがこの歌を歌ったとしたら「お前、ピアノ弾けるやん!」で終わってしまいます。リチャード・クレイダーマンが「もしもピアノが弾けたなら」を歌ったら、それはもう体を張ったギャグにしかならないのです。
しかし、もっと踏み込んで考えてみましょう。リチャード・クレイダーマンが「もしもピアノが弾けたなら」を歌った場合、もしかしたらもっと高みを目指しているのではないのかと深読みをする人が出てくるはずです。リチャード・クレイダーマンともあろうものが、実はまだピアノが弾けていないと考えていて、だからこそ「もしもピアノが弾けたなら」と歌い上げるのであれば、それはもう、めっちょこ意識の高いリチャード・クレイダーマンと言えるでしょう。
もちろん、普通のリチャード・クレイダーマンが意識低いというわけではありませんので念のため。リチャード・クレイダーマンは東日本大震災が起きて、海外のアーティストがぼこすか日本公演をキャンセルする中、きっちり予定通り日本公演を行った、男の中の男なのです。すごい人なんですよ。
なぜ、ここまでリチャード・クレイダーマンを推しているかと言うと、他にピアニストを知らないんです。博覧強記を自負している私ですが、ピアニストに関してだけは、本当に疎いのです。他のことはたくさん知っていますし、現代の生き字引として今度コストコの世界遺産に登録してもらうように働きかけをする予定にしているのですが、そんな私でもピアニストだけは知識が薄いのです。そんな私が唯一、本当に唯一存じ上げているのがリチャード・クレイダーマンなのです。
何がどうというわけでもなく、名前がめっちょこかっちょいい。「私はリチャード・クレイダーマンです。」と、是非声に出してみてください。なんというか、うおお!ってなりますよ。ものすごくなります。ならないわけがないのです。それぐらい、リチャード・クレイダーマンという言葉そのものが持つ魅力に取り憑かれているのです。
そして、爪弾く音楽が「イージーリスニング」というのも実に素晴らしい。リチャード・クレイダーマン、もしかしたら母親に連れられてコンサートに行ったことがあるかもしれないのですが、どうも違うような気がする。郷ひろみのコンサートに連れて行かれた記憶はあるのですが、リチャード・クレイダーマンはどうだっけ?合掌。