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じんわりとするでしょう。
サランラップでくるまれた、手作りのおにぎりがちょこんと電車の座席の上に置かれていたのです。そばにはだれもいません。誰のおにぎりか、わかりません。誰が握ったものかもわかりません。どうしたらいいのかわからなかったのですが、とりあえず「おにぎりが置いてあるねぇ。」「そうだねぇ。」という、これまたじんわりとした会話を相方と交わした後、おにぎりをぼんやりと眺めていました。
悲しみ。
じんわりと湧き上がってくるのは、悲しみという感情です。
おそらく誰かが誰かのために心をこめて握ったおにぎりであることに違いはないはずなのです。食べるはずだった誰かの手を離れてしまったがために、誰からも食べられることなく、ただただ電車で遠くに運ばれていくだけのおにぎり。終点、新三田までおにぎりは運ばれていくのです。食べられてこそのおにぎりなのに、食べられることなく、ただただ新三田まで運ばれていくおにぎり。
この悲しみ、なんと表現すればよいのでしょう。
あなたが食べればいいじゃないかと思われるかもしれませんが、誰が握ったのかわからないおにぎりをむしゃむしゃと食べることができるかと言われたら、それはさすがに現代社会においては無茶というものではないでしょうか。戦中、戦後の食糧難の時代ならいざ知らず、今の世の中で「落ちているおにぎり」を食べるなんてリスクを犯すのは裸の大将ぐらいのものでしょう。
野に咲く花のように風に吹かれようとも、新三田まで運ばれるおにぎりを途中でむしゃむしゃ食べたらだめだと思います。もし、食べた後で所有者が現れて「ぼ、ぼくのおにぎりをた、たべたんだな!」と言われたら、どうすればよいものか。
いろいろと考えれば考えるほど、どうしてよいのかわからなくなります。いや、わかっているんです。そのまま放置するしかないのです。
結局、私たちは京橋で電車を降りたのですが、おにぎりは動くことなく、誰からも触れられることもなく、新三田に向かって運ばれていきました。合掌。