ぐわぐわ団

読んで損する楽しいブログ

スマホ事始め その3

何度お断りするんだと思われるかもしれませんが「スマホ事始め」です。「スマホ姫始め」ではありません。そして「スマホ姫始め」ではないことをお伝えした時点で、私の言いたいことは全て言い尽くしてしまっているので、ここから先は蛇足でしかありません。

昨日はスマホは悪魔だ何だと取り乱してしまい申し訳ありませんでした。スマホが電気で動くという理解しがたい事実を前にして、理性を抑えることができませんでした。しかし、いくら考えてもスマホが電気で動いている事実を理解することができないのです。

画面が液晶でできていることも理解できません。液晶というのは、白と黒しか表現できなかったはずなのです。計算機に使用されている液晶であれば理解できるのですが、いざテッカテカでフルカラーな総天然色の液晶画面を目の前にすると、それは本当に液晶なのか?と思わざるを得ないのです。

私にとっては、昔のゲームボーイがギリギリ液晶だと認識できるレベルです。

ゲームボーイパーフェクトカタログ (G-MOOK)

これ。ゲームボーイカラーとか、ゲームボーイアドバンスではなく、4段階の液晶しかなかった初代ゲームボーイ。これこそが液晶の最高峰です。今のスマホの画面が液晶と言われても「は?何言ってんだ?ウソつくでねぇ!」と言い返したくなるのです。

そんな綺麗な写真みたいな画面が液晶であるわけがねえ。そったらもん、あるわけねぇ。悪魔が幻覚を見せているのだ!おめえの使っているスマフォとかいうのは悪魔が魂を抜くための道具に違いねぇだ!ブラウン管のテレビにRFスイッチで本体をつないで遊んだファミコンですらハイカラなもんだったのに、今や何のケーブルもつながずにスマフォで動画だ、映画だ、ゲームだと、何を好き勝手言っているのだ。そんなことはありえないことで、映画を見たければレンタルビデオ店に行って、ビデオテープを借りてくるのが当たり前だ。返却するときに巻き戻さねば怒られるのだ。そういう時代を生きているのです。スマホに騙されてはなんねぇ。合掌。

スマホ事始め その2

改めてお断りしておきますが「スマホ事始め」です。「スマホ姫始め」ではありません。そして「スマホ姫始め」ではないことをお伝えした時点で、私の言いたいことはほぼ言い尽くしてしまっているので、ここから先は蛇足でしかありません。

スマホというのは正式名称をスマートフォン(英: smartphone)といい、スマートなフォンを指します。おわかりかと思いますが、正式名称がスマートフォンである以上、本来であれば「スマフォ」と略すべきものですが、なぜかスマホなのです。しかしながら、知ったかぶって「スマフォだろうが!」と言ってはしまってはいけません。「スマフォ」などと口にした瞬間に「あの人はスマホのことをスマフォと言う変な人だ」と烙印を押されてしまいます。以後、死ぬまで「フォの人」と呼ばれることになります。気をつけましょう。

さて、スマホに関して、基本的な事柄をおさえていきましょう。まず、スマホは電気で動きます。ガスでは動きません。実は極秘裏のうちにガスで動くスマホが開発されているのですが、移動するにあたってガスボンベを背負わねばならないこと、ガス漏れの危険性があるなど不便な面も多く、あまり使用している人はいません。たまに、ガスボンベを背負ってうろうろしている人を見かけますが、その人はガスで動くスマホを使っている人です。ガス会社で勤めている方に多く見受けられます。

さて、スマホは電気で動くといいましたが、みなさんは電気をご存知でしょうか。9Vの箱型電池の出っ張ったところを舌でぺろっと舐めてみましょう。ビリビリとします。あれが電気です。あんなものでスマホが動くものでしょうか。ビリビリとはしますが、あんなものでスマホが動いて、計算をしたり、通信をしたり、音楽を再生したり、辞書の代わりになったりするわけがありません。冷静に考えれば考えるほど、電気でスマホが動くわけがないのです。となると、どうやってスマホが動いているのでしょうか。考えられるのは悪魔の所業だということです。スマホは悪魔の箱なのです。悪魔がスマホを動かしているのです。恐ろしいことです。スマホなど使ってはいけないのです。スマホを使うのは悪魔が憑いているからだ!この悪魔め!合掌。

『YouTuberキティの人生相談』と『みんなの道徳解体新書』を読みました

Amazonのなんちゃらセールで、ちくま新書やちくまプリマー新書の電子書籍が安かったんです。だもんで、いろいろと漁っているうちに見つけたのが『みんなの道徳解体新書』という本。著者はパオロ・マッツァリーノという怪しい人。

今回、ちょいちょい長い引用をします。ご了承ください。この本の冒頭の部分です。

「このごろの子どもたちは、自由をはきちがえていて、口先ばかりで実行がともなわない。また自由、自由とばかりいって、責任ということを考えない。これでは、放任の教育だ。」

 こんな意見を、みなさんも何度か耳にしたことがあるはずです。昨年、先月、もしかたら昨日聞いたかもしれない。ってくらいにありふれた意見です。

 どれくらいありふれているかといいますと、じつは冒頭の文章は、1957(昭和32年)に出版された『新しい道徳教育』という本から引用したものなんです。

いきなり強烈なフックが飛び出します。60年ぐらい前の本に書かれていた内容が、実は今とさほど変わらないという事実にびっくりするのです。

そういえば、この前読んだ『食えなんだら食うな』という本も、昭和53年の本でしたが、最近書かれた本と言われてもわからないぐらいの内容でした。意外と人間というのは進歩も成長もしていないのかもしれません。

さて、『みんなの道徳解体新書』という本ですが、道徳の副読本をいろいろと引っ張り出してきて、へんてこなところをツッコミまくり、道徳教育なんて無駄じゃと一蹴してしまう、大変痛快な本となっております。昔の子どもは道徳心にあふれていたみたいな幻想も、そんなことあるか!と事実とデータをもとにねじ伏せます。

とにかく、めちょんこおもしろかったのですが、最後のほぼまとめのところの文章が秀逸だったので、またまた少し長くなりますが引用します。

 ゆえに道徳の授業で教えるべきは、いのちの大切さではなく、多様性の尊重です。

 人はそれぞれ考えかたも趣味も見た目も違います。その差異が他人に迷惑を加えないかぎりは、差異をできるだけ認めること。自分とは異なる考えかたや価値観が存在することも認め、考えが自分と異なる相手を頭ごなしに否定・排除するのでなく、自由に議論できるようにすること。憎しみや殺人やいじめを減らすには、その方法しかありません。 

憎しみや殺人やいじめを減らすには、ぐわぐわ団が事あるごとに口にする「みんなちがってみんなかわいい」に行き着くのです。 

そこで、『YouTuber キティの人生相談』です。

「女子とはどう接したらいいですか?」という、めちょんこ青臭い相談に対して、キティちゃんは「人として相手を尊敬する気持ちをもって向き合おう」と最高に素敵な答えをしています。ハードボイルドな北方謙三氏ならズバッと「ソープに行け!」と言うはずです。しかし、そんなアバンギャルドな答えも「人として相手を尊敬する気持ちをもって向き合おう」と言われたらおずおずと引き下がるしかありません。

話がどっかにいってしまいましたが、この本にもやはり「みんな違ってみんなかわいい!」と書かれています。もっとすごい回答もありますよ。「友だち=人 に限らない」とか「苦手なままでいい」とか。特に、ママ友にちょっぴり苦手な人がいます。どうしたらいいでしょうか?という相談に対する「苦手なままでいい」というキティちゃんの優しい回答。無理しなくていいんだという安心感。

ほんと、世界中にはいろいろ問題があって、人と人でばちばちしたり、国と国でばちばちしたり、ろくでもないことが多いんですが、まずはこの「YouTuber キティの人生相談」を読んで「みんなちがってみんなかわいい」の精神をみんなの心の中に育てる必要があるんじゃないかなと思います。

先日、ピューロランド巡礼をして、その気持ちを一層強くしました。世界中の人が「みんなちがってみんなかわいい」を理解できれば、とっても素敵な世界になるような気がしてなりません。ぐわぐわ団も読んで損する楽しいブログと称して毎日いろいろくだらないことを書いていますが、事あるごとに「みんなちがってみんなかわいい」を広めたいなと思っております。うわ、めっちょこ長くなってしまいました。では、おやすみなさい。合掌。

▼『YouTuber キティの人生相談』を読むきっかけになったりずさんの記事▼

lizune.hatenablog.com

▼ぐわぐわ団も自由ネコさんとスコちゃんと人生相談してたりします▼ 

自由ネコ、スコちゃん、ぐわぐわ団のみんなで好き勝手にお悩み解決 みんな正解!
 

スマホ事始め その1

最初にお断りしておきますが「スマホ事始め」です。「スマホ姫始め」ではありません。そして「スマホ姫始め」ではないことをお伝えした時点で、私の言いたいことはほぼ網羅してしまったので、ここから先は蛇足でしかありません。

スマホがどんどん普及しており、いまやスマホが使えないと言えば、原始人か何かかと言われる始末です。もう年だからなんて言い訳は通用しません。例え、余命三ヶ月と宣告されようとも、スマホを使えるようにしなければならない時代です。スマホが使えなければ「あの人はスマホも使えない原始人だった」と、お葬式の時にヒソヒソ語られてしまいます。国鉄時代に蒸気機関車の機関士であったとか、食パンが大好きだったとか、そういう個人の逸話は全て「あの人はスマホも使えない原始人だった」に塗りつぶされてしまうのです。紫綬褒章をもらっていたとしても「紫綬褒章をもらっていたにも関わらずスマホも使えない原始人だった」と、マイナスの意味合いが強くなります。

人として生きる以上、全てにおいてスマホが使えることが前提となる世の中であると強く認識せねばなりません。スマホが使えない=人ではない、なのです。むちゃくちゃなことを言っているようですが、おそらくあと数年もすれば、もっとスマホが使えないことに対する迫害は強まるでしょう。今はまだ、亡くなった後でお葬式のときに「あの人はスマホも使えない原始人だった」と言われるだけで済んでいますが、数年後には「あの人はスマホも使えない原始人だ」と近所を歩いているだけで指を刺されるようになるのです。

そうなってからスマホの使い方を学ぼうとしても時すでに遅しです。スマホの教科書みたいな本は本屋さんの隅に追いやられており、どうにかこうにか見つけ出してレジに持って行っても、ちゃらちゃらした店員さんに「えー、今さらこんな本を買うんですかぁ?もしかして、スマホ使えないのぉ?」とけちょんけちょんに言われるのです。「無礼な!」とお怒りになったとしても、陰で「原始人が怒った」と言われるだけです。惨めな話です。というわけで、スマホを始めましょう。長くなりそうなので明日に続きます。合掌。