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「バーニャカウダ」と検索をかけることに二の足を踏む理由

突然「バーニャカウダ」という単語が頭の中に舞い降りてきました。そして、私は「バーニャカウダ」が何かを思い出すことができません。

Googleで検索をかけてはっきりさせることは簡単ですが、そんなことをしたらGoogleのコンピューターを動かすために、貴重な資源である電気を使ってしまうことになります。電気を作るには発電所が必要で、私が「バーニャカウダ」と検索などしようものなら、発電所の寿命を縮めることにつながるかもしれませんし、発電するためには石油などの燃料を消費する必要もあります。

つまり今、地球で生きるもの全員が考えなくてはならないエコロジーの視点から考えると、私が「バーニャカウダ」を検索することは、決してエコではありません。

他にも、私が「バーニャカウダ」と検索をかけることで、GoogleのコンピューターのCPUがすり減って使えなくなってしまうかもしれません。本当にGoogleで検索をかけたい人たち、どうしても情報を得ないといけない人たちが検索をかけようとしても、私が先に「バーニャカウダ」と検索をしてCPUをすり減らして使えなくなってしまったがために、真にGoogleを必要とする人たちに迷惑をかけてしまう可能性もあるのです。

他にも、何でもかんでも簡単に検索してしまうことが、脳の働きを劣化させることにつながるかもしれません。脳は使わなければどんどん衰えていきます。例えば、毎日何も考えずに、ユーチューバーが踊り狂っている動画を90年ほど見続ければ、脳が衰えるのはもちろんのこと、死んでしまうかもしれません。考えることはとても大切なことです。

そう考えると「バーニャカウダ」と検索をかけることには二の足を踏んでしまうのです。躊躇してしまうのです。別に「バーニャカウダ」が何かを知らなくても、これから先の人生で特に困ることはないと思います。行き倒れの人が苦しみながら「バ、バーニャカウダを……」と言い、そして息を引き取ったとしても、それはその亡くなった人の運命であり、私が「バーニャカウダ」を知らなくても仕方のないことなのです。私が「バーニャカウダ」を知っていて、しかもいつもかばんの中に常備していたとすれば、行き倒れの人の命が長らえたかもしれませんが、それも含めて運命です。

なんでもかんでも検索をかければよいという話ではありません。せっかく「知らない」のです。「知らない」を楽しむぐらいの心の余裕は必要でしょう。「知らない」が「知った」途端、自分で考えることが必要なくなるため、おもしろくなくなってしまうことがあります。「知らない」のは悪いことではないのです。合掌。