ぐわぐわ団

読んで損する楽しいブログ

判決を言い渡す

ぼんやりとニュースを見ていると、悪いことをした人がたくさん出てきます。

事件が起きて、犯人が逮捕されて、それでおしまいみたいな気がしますが、ちっともおしまいではありません。逮捕されたあと、裁判があって、判決が出て、犯罪に応じて刑が執行されるのです。もしかしたら、無罪かもしれません。でも、注目度とすれば、やはり逮捕されるときで、判決はちょろっと報道される程度だったりです。

相方とふたりでごはんを食べながらニュースを見ているときに、悪いことをした人が逮捕されると、即席裁判が始まります。だいたい死刑です。

「悪いやっちゃ、死刑や。」

がきデカのこまわり君じゃあるまいし、やすやすと死刑を宣告するのもどうかと思いつつも、面倒なのでだいたい死刑です。時と場合によっては、政治家の暴言といった、犯罪ですらないことに対しても死刑宣告が出されることがあります。

うちの即席裁判で出された判決が執行されることはありませんが、本当の裁判で出された判決はしっかりと執行されることになります。このあたり、責任感が全然違うと思われます。裁判官のみならず、最近は裁判員制度によって、普通の人が殺人犯を裁くみたいなこともあり、めっちょこ大変じゃなかろうかと思うのです。

「懲役15年でええんと違いまっか?」

「いやいや、18年は必要やで。」

「その3年の違いは何ですのん?」

「3年って結構長いですやん。」

「でも、15年も18年も一緒ですやん。」

「面倒やし、無期懲役にしましょか。」

ついつい、こうなってしまうような気がしないでもありません。人が人を裁くこと、そのものが難しくてややこしいのです。いっそのこと、AIにさせたらええんじゃなかろうかとも思うのですが、AIはそんなに賢いわけでもなく、ただ過去のデータをもとに、一番近い判決をいくつか見つけてきて平均を出すぐらいのものなので、それで納得できる判決なのかというと、微妙なところです。そして、新しい犯罪が出てきたときなど、AIでは対処できません。

何が言いたいのかというと、悪いことすんなということです。ぐわぐわ団の刑法は「悪いことをしたら死刑」の一文だけです。よろしくお願いいたします。合掌。

三島よりもノーベル文学賞を意識しています

先日、クローズアップ現代プラスで三島由紀夫がノーベル文学賞を意識しまくっていたということを言っていました。そして、川端康成ではなく、三島由紀夫がノーベル文学賞を取っていたなら、きっと未来は変わっていただろうといった感じの話でした。

その辺はよくわかりませんし、三島由紀夫の小説『金閣寺』を少しだけ読んだものの、途中にめっちょこ嫌なシーンに引っかかって読み進めることができず、三島由紀夫なんて大したことないなと中学生ながらに感じたものです。

はっきりと言いますが、三島がノーベル文学賞を意識していたと言うのであれば、私はもっと意識しています。いつも、ノーベル文学賞を受賞したらどうしよう、基調講演は何を話そう、そして賞金でウハウハと暮らそうと考えています。三島がどのようにノーベル文学賞を考えていたのかはわかりませんが、私の執念に比べたら大したことはないはずです。

もっと言うと、私は別にノーベル文学賞だけにこだわっているわけではありません。ノーベル物理学賞、医学賞、その他もろもろ、全て総なめを狙っています。「HUGっと!プリキュア」で言っていたではありませんか。「なんでもできる、なんでもなれる」と。ノーベル賞総なめもできないことはないはずです。そういう意識を持っている点において、私は三島由紀夫に負けていません。ただひとつ負けているとすれば、私は小説を書いていないことぐらいです。

突然ですが、『伊豆のうどん粉』というタイトルを思いついたので、『伊豆のうどん粉』という小説を書いてノーベル文学賞を頂戴しましょう。

トンネルを抜けるとそこは雪国じゃなくて伊豆で、うどん粉がたくさん獲れます。

ここで筆がピタッと止まってしまうのですが、確か『伊豆の踊子』という小説は、踊子が夜な夜なおっさん連中に手篭めにされるのではないかと想像してもんもんとしていた主人公、朝風呂に入っていたら、すっぽんぽんで無邪気に手を振ってきた踊子を見て鼻血ブーで死亡という話だったと思うので、それよりマシでしょう。ですので、ノーベル文学賞はもらえるという算段です。合掌。

笠地蔵

「笠地蔵」という昔話をご存知でしょうか。ハンドメイド作家のおじいさんが笠を売りにフリマに出店するもひとつも売れず、帰りにお地蔵様に笠をかぶせて帰るという話です。多少、現代的にアレンジしました。

おじいさんは笠をひとつも売ることができなかった事実に対して、しっかりとPDCAを回すべきでした。安易にお地蔵様に笠をかぶせても、何の解決にもなりません。なぜ笠が売れなかったのか、笠を家に持ち帰り、しっかりと振り返りをすべきだったのです。

デザインが悪かったのか、笠そのものに需要がなかったのか、売り方に問題はなかったか、価格設定に問題はなかったのか、考えられる限りの理由を挙げ、次につなげるべきだったのです。

もし、デザインが悪かったのであれば、笠のデザインを一から勉強しなおさねばなりません。笠に需要がないのであれば、別の製品を企画し、制作する必要があります。大切なのはマーケティングです。売り方にしても、おじいさんがしょぼんとして売っていては売れるものも売れません。若い販売員を雇うのも1つの方法ですが、おじいさんが熟練の技で作った笠であることを売りにするのも方法です。いかに、商品の良さを見極め、ポイントを突いた売り方ができるかが、笠の販売にも言えることなのです。

価格設定も重要なポイントです。いくら良いものであっても、高くては売れません。かといって、安くしすぎても「こんなに安いのなら、何かがあるはずだ。すぐに破れるかもしれないし、サイズが微妙に小さいのかもしれない」と深読みをされて、逆に売れなくなることもしばしばです。価格設定は適切に、利益をしっかりと確保できて、顧客からは満足してもらえる価格をビシッと決めることが大切です。

マーケティングの勉強もせず、需要と供給を考えずに、ただ単に自分で作ったモノを売りに行ったとしても、現代社会においては売れません。やはり、試行錯誤をしながら、マーケティングや経済の動きなどを勉強し、PDCAを回していく積極的な姿勢が求められるのです。

笠地蔵の話では、運良くお地蔵様が財宝を持ってきてくれましたが、本当はそんな浮かれた話があるわけがないのです。地道にコツコツと、商売の道を追求せねばなりません。笠地蔵のお話でした。合掌。

スイート&ビター

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

はてなブログの今週のお題、スイート&ビターな日!と書いてあったので、何のこっちゃと思ったらバレンタインデーの話題のようです。

バテレンのお祭りには大して興味もありませんし、チョコレートはGHQの皆さまからたくさん頂きましたので、もう十分です。米国人を見ると「ギブミーチョコレート!」と叫んでチョコレートを頂く一方、頭の固いご老人からは「みっともない!」と叱られました。でも、頭の固いご老人はチョコレートはおろか、おまんじゅうもくれないので、どちらが偉いんだと子ども心に思ったものです。

いろいろと恨みつらみはあるかもしれませんが、戦後、栄養状態が足りなかった日本に食糧援助をしてくれたのは米国です。そんな米国を讃えるべく、今、DA PUMPの方たちが「USA」と歌い踊っていらっしゃるのです。そのことを忘れてはいけません。

バレンタインデーの話題はそこそこにして、スイート&ビターという言葉から、私が本日感じた「スイート&ビター」な話題。

虐待を受けていたワンちゃん(世界のホームラン王・王貞治のことではなく、ネコ目(食肉目)イヌ科イヌ属に分類される哺乳類の一種)が動物保護団体によって保護されたというニュースを見ていたのですが、その時の画面がこちら。

ワンちゃんの写真の下に注目してください。「黒毛和牛何皿でも半額」です。ワンちゃんは保護される一方で、黒毛和牛は何皿でも半額なのです。これぞ、スイート&ビターではないでしょうか。私たちは命を頂いて生きています。ワンちゃんを助ける一方で、黒毛和牛を食べるのです。しかも、何皿でも半額で。このスイート&ビターな状況を、甘んじて受け入れねばならないのです。もちろん、絶対菜食主義者ヴィーガンとして生きるという選択もありますが、考えすぎると植物なら食べてもよいのかという究極のところまで行き着いてしまいます。

とりあえず、この記事に対して、広告の内容がマズいんじゃないかと思っただけです。黒毛和牛がマズいわけではありませんので、念のため。

それより、我らがマスクド・ニシオカさんのブログが1000日を超えたそうです。千日回峰行の満行ということですので、阿闍梨としてこれからも頑張ってください。合掌。

▼阿闍梨となったマスクド・ニシオカさんのブログはこちら▼

www.maskednishioka.com