お水取りで有名な東大寺二月堂。そこの御本尊というのは絶対秘仏として有名です。絶対秘仏とは何かと言うと、誰も見ることができないという意味です。
秘仏とか言われていても、なんやかんやで数年に一度はご開帳とかするものが多い中、東大寺二月堂の十一面観音像はご開帳されることは決してなく、東大寺二月堂で修行している人であっても見ることはできません。ぶっちゃけ、天皇陛下であろうとも、エリザベス女王であろうとも、金正恩であろうとも、「見せて」と言っても見ることができないのです。
なぜ、ここまで必死になって隠すのかを考えてみたのですが、おそらくびっくりするほどスカタンな出来栄えなのではないかとにらんでいます。 見られたら「こんなもんが御本尊か!」とニヨニヨしてしまうような、わけのわからん御本尊なのではないでしょうか。さすがにこんなの見せられへんということで「見せない」ようにしていたら、だんだん「見せない」が「見られない」になって、「見られない」に価値が生まれて、今のようなことになってしまったのではないでしょうか。
いつでも見られるのであれば、何となくいつでも見れるやんということで、ものすごくものすごいものでもあんまりありがたみがないものです。逆に、見ることができないとなると、なぜか人間は「見たい!」と思うようになって、フランダースの犬みたいなことになるのです。ルーベンスの絵を見たくて犬と心中(天使がとどめを刺したという説もあり)するんですから、とんでもないことです。
さて、「見ることができない」に価値があるのですから、ぐわぐわ団も絶対秘仏をこしらえて、どっかに隠しておいて、十分に熟したところで拝観料をがっぽし取って、ご開帳すれば儲かるのではないでしょうか。たぶん、東大寺二月堂の御本尊もそんな感じで考えていたけれど、なんとなく機会を逃してしまって今に至る、という可能性もなくはありません。今更、ご開帳して儲けるなんてことできるわけないじゃないですか!みたいになってしまった可能性もなくはないのです。
ただ、こういう俗っぽいことを考えているうちはダメなんでしょうねぇ。合掌。