ぐわぐわ団

読んで損する楽しいブログ

フィーン・デジオカ

いろいろな方のブログを読んでいて、ちょいちょい目にするのが「書くことがない」という嘆きの言葉。書くことがないのは死んでいるのと同じ。生きてさえいれば、何かしら書くことがあるはずです。上を向けば、星が見えるかもしれません。そしたら、星の美しさを文章にすればよいのです。残念ながら雨が降っていて星が見えなかったとしても、雨の冷たさを文章にすればよいのです。下を向けば、花が咲いているかもしれませんし、その花が風に吹かれて人をさわやかにしているかもしれません。

書くことがないなんて、生きている以上、ありえないことだと言ってしまってもよいかもしれません。どこに目を向けるか、何を考えるか、それは書く人の感性によるものであり、人それぞれ、千差万別、大野伴睦です。

大野伴睦を知らない人はいないと思うのですが、岐阜県内にある唯一の新幹線の駅を岐阜羽島にしちゃった政治家です。岐阜羽島駅を大野伴睦駅と呼ぶ人もいるとか、いないとか。いろいろと話の裏もあるようですが、とりあえず岐阜羽島駅の駅前には大野伴睦とその妻の銅像が建っています。

というわけで、こないだはてブコメントで自由ネコさんが書いていた「フィーン・デジオカ」について、適当につらつらと書き殴ろうと思います。文章の冒頭で星の美しさを書けばよいとか言いましたが、実際は星の美しさなどは視力が悪いと書けません。小学生のときの宿題で星の観察なんてのがありまして、夜、クラスメイトのみんなと近くの公園で星を観察することになったものの、目が悪いもんだから、みんなが「あ、星が見えた!」「あれは北極星かな?」とか言っているのを聞きながら、真っ暗にしか見えない空を見上げて「嗚呼、何も見えない……」と悲しみに沈んでいたのです。

それはそうと、フィーン・デジオカに関してですが、朝の4コマ漫画でゴルロス・カーンという出落ちキャラを登場させたばっかりだというのに、次はショーン・デジオカに関して書けというのも無茶な話です。小学生の時に星が見えずに悲しみに打ちひしがれた思い出を胸に、今日もフィーン・デジオカの生誕を夢見るのであります。いつものことですが、よくわかりません。合掌。