馬人間の登場です。
馬人間 vs 坊さんの戦い。坊さんは必殺技、念仏を唱えた!しかし、馬の耳に念仏!馬の勝利です!ヒヒーン!!!
馬の耳に念仏とは、馬に念仏を聞かせてもそのありがたみがわからないことを表していますが、馬人間は人間並みの知性を持ち合わせています。実は馬の耳に念仏は馬人間には通用しないのではないのでしょうか。もう一度振り返って考えましょう。
馬人間 vs 坊さんの戦い。坊さんの必殺技、念仏を唱えた!馬人間には人間並みの知性がある!つまり、馬人間はありがたみがわかってしまった!坊さんの勝利!ぼぼーん!
ということになるのです。ここでもう一つ問題が発生します。必殺技という言葉を分解すると、必ず殺す技です。出したが最後、相手は必ず死ぬのです。スタン・ハンセンの必殺技、ウエスタン・ラリアットも普通の人がくらえば死にます。ただし、坊さんが殺生をすることはなりません。必殺技として念仏を唱えることは決してならぬことなのです。ならぬことはならぬのです。
馬人間 vs 坊さんの戦い。馬人間の反撃。泣いて馬謖を斬る!えーん、えーん、ズバッ!
かわいそうなことに、馬謖は今なお泣いて斬られる存在であり続けています。横山光輝の三国志はおっさんばっかりだったので読む気がおきず、しかも全60巻というボリュームです。おっさんばっかり全60巻も集めて読む資力も気力もありませんでした。そんな三国志の逸話として有名なのが、泣いて馬謖を斬るという話なわけですが、泣くぐらいなら斬らなければよいのです。ただし、坊さんは馬謖ではない!
坊さんは馬謖ではないので馬人間の攻撃は当たらない。
馬人間 vs 坊さんの戦い。坊さんは生き馬の目を抜く技を繰り出した。馬人間は何も見えなくなった。
生き馬の目を抜くとは、すばしこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。驚きの意味で使うのは誤りです。生き馬の目を抜くせちがらい世の中、というような使い方をします。
現代社会は生き馬の目を抜く世の中であると言えます。何事にも競争、競争、競い争うことが当然であるかのようになっていますが、少なくとも日本は農耕社会から発展しており、狩猟社会を根源とした西洋かぶれの考え方に騙されてはいけません。生き馬の目を抜いてしまえば、移動手段が失われ、大規模に田畑を耕すこともできなくなります。人の力で田畑を耕すよりも、馬の力を借りて田畑を耕さねば、広く開墾することはままなりません。
つまり、馬人間と坊さんは手と手を取り合って、仲良くせねばならぬのです。ならぬことはならぬのです。ぬるぬるです。合掌。